前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

フタバより遠く離れて2

ポレポレ東中野で「フタバより遠く離れて 2」上映後に舩橋監督のトークを聞く。

◯公式サイト http://nuclearnation.jp/jp/


予告編動画 http://vimeo.com/107120572



前作「フタバより〜」は映画館で2回観た、これまで観た原発関連のドキュメンタリーの中でも稀有な作品。2012年秋の日本国内の劇場公開時と、去年も特集企画での再上映とトークを観た。初回に見たまま時間が経って映像イメージに自分の思い込みやら勝手な脚色が付いていた事を再確認した。特に双葉町の被災者住民が永田町の自民党本部に抗議に行くシーンでは、議員たちが半笑いで迎えていた様な絵が脳裏に刻まれていた・・・けど、翌年見返したら笑ってはいなかった、意図的に「表情」を殺している様な蝋人形にも見えた。双葉町民の訴えと議員の答え方のやり取りは、まったく話が噛み合っていない、国会中継の質疑でよく診た病状がシームレスでつながっていた。


今回の作品、第二部は原発事故の起きた2011年末の校内から年明け、2013年 年明けの井戸川町長解任、新町長誕生と仮設住宅の住民が多い福島県いわき市へ役場機能が移転。今年2014年3月末の元避難所、埼玉県立騎西高校大掃除と引き渡し。国と県が押し進める「中間」貯蔵施設と名ばかりの説明会の様子などを記録している。いわき市仮設住宅から原発の片付け作業へ向かう元住民の深夜の通勤にも同乗するなど、前作の騎西高校をベースにしていた映像と比べても、様々な被写体から見える喜怒哀楽では分けられない情景を記録している。


前作と共に異様な場としてのシーンは、なんといっても「全原協」全国の原子力発電所が置かれている自治体(各市町村)の集まる協議会の総会会場。各自治体の代表は「ぐずぐずせず国は早く再稼働の決断を」の一点張り。伊沢史朗双葉町長は呆然として座ったまま、違和感を口にするのは総会が終わってから監督の質問に答える形で。
同じ原発施設をお膝元に抱えた各地の代表が、福島第一原発の事故をどれほど他人事に見ているのかが分かる。本音を勘ぐれば「ヘマしやがって迷惑なんだよ馬鹿野郎」位にしか感じてないのだ。スリーマイルにしろチェルノブイリにしろ、自分たちは大丈夫だと根拠なく慢心して身内で起こした事故は繰り返し隠して、大津波の警告も無視して運転し続けてきた結果が福一だろうに。



騎西高校の引渡し前に元避難者の有志も駆けつけて大掃除をする、井戸川さんは町長室を掃除しながら避難当時の凝縮された時間を淡々とした語り口で振り返る。



フタバから遠く離れてII――原発事故の町からみた日本社会

フタバから遠く離れてII――原発事故の町からみた日本社会


事故当時 枝野官房長官が会見で「ただちに健康に影響はない」と言い切った時に、こいつら(政官トップ)は水俣病での対応を行政のロールモデルにして、健康被害を意図的に過小評価して患者が苦しみながら あきらめ・死んでいくまで国の責任を何十年先までトボケる気だなと思った。自分の邪推はそう外れてはいないと思う。子どもの低線量被曝リスクを訴える識者の中でも、水俣病への国の怠慢は繰り返してはいけないと警告されている。
国が原発事故の健康被害を公に認める時期は、2020年東京オリンピック後ではないか という「意地の悪い」予想が対談の話の流れでも紹介されている。


前作では住民同士の感情の軋轢を映像で見せることには未だ抵抗があった、という舩橋監督の思慮は深い。作品を継続して語られている大事なことは、原発で古里を失った人達が今も耐用年数の過ぎた仮説住宅に、子や孫とバラバラに離され、賠償どころか人権もないがしろに捨てられて居ること、311の黙祷や復興をテーマにした一過性の同情で消してしまったり(作品名は私達日本人の関心さえも原発被災地から遙か「遠く離れて」というダブルミーニングだという)、他人事ではなく我が事として受け止めて 考え、それぞれの場所から真っ当な信頼関係を立て直し 責任を持つ。大飯原発運転差し止め訴訟での福井地裁の判決文の様に、人として真っ当に。
一時帰宅での映像は今回も深く刻まれた。「ネズミ避け薬剤」を傷みのはげしい自宅の畳に撒く梅田お婆さんのマスク越しの ため息とも重なりながら。