前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

秘密保護法案反対で1万人集会とか

ここ数日は肉体労働なので仕事帰りに余力もなく帰宅したけど、日比谷野音では予定通り秘密保護法案に反対する集会が行われたとニュース記事。仮に日比谷に行ったところで集まった規模を実感して長居せず帰ったとは思う。自分の位置にもよるけど、単純化されたスローガンをオウム返しに叫ぶのは嫌いだし、耳元で叫ばれるのも嫌いなので。しかし、後になって公の場で反対しなかった事を悔やむ気がしている。


与党に返り咲く前から自民党の出す法案があまりに幼稚過ぎて正直実現するとは思えずにいたら、もう修正して可決寸前まで来ているらしい。

メディアが自分で自分の首を絞める事になりかねない法案に、いまいち強く反対しないのは記者クラブがある限り自分たちは例外なんだと安心しているんだろう。


3・11直後から脱原発デモに何度か消極的に参加してたけど、最初の数ヶ月は国内の旧態メディアには無視されてた感がある。3・11以前のよくあるデモの様に公安警察が集会の周りに分かりやすいくらい立っていたし。彼らの姿が露骨には見なくなったのは官邸前抗議が巨大化してからだと思う。権力を絶対悪だと思う古い左寄り文化人は今もメディアには取り上げられるけど、官邸前デモの参加者数ピーク時には普通の勤め人や子育て中の母親、学生、若者の姿が多い姿は、抗議行動に参加したか見に行った事がない大多数の人には伝わってない。多くの人達には未だ抗議行動=活動家というステレオタイプなイメージが健在だろう。新聞テレビでも有名な文化人がスピーチをした一部を切り取って伝えている手法のままなので。


それにしても世間の淀んだ空気、ネットのネタ化、抗議行動全般への冷笑・嘲笑って何なんだろうと思う。原発反対〜脱原発に対して、同じ立場のはずの普通の人々の拒否反応が大きいのを痛感した。最近は痛感を通り越して鈍化してもいる。不毛などっちが無責任とか、優先順位を逆にしてまで騙る詭弁を聴くと、この憎悪に近い感情の原動力はなんなんだろうと思う。自分が想像していたよりはるかに、現状の生活を守りたい=国の方針に抗う人間を憎悪する。そんな愛国ホルモン物質(仮名)でも分泌されるの?とか。ヒトは社会性の動物なので、理路整然と説得したところで無理心中に逆らえないことだって起きる。専門家が寄ってたかって活断層の上に原発作る国だもの。ニッポンを取り戻す。戦後の焼け野原へと。そうはさせまい。