葬式プランナーまどかの お弔いファイル
- 作者: 奥山晶子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/08/01
- メディア: 単行本
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去年夏に出版されラジオ経由で話題になっているのを知り、先月購入して一気に読んだ。葬儀のあり方にはずっと関心があったけど、ここ数年で同じ職場の3〜6歳上の同僚が、立て続けに親の介護や看取りに向き合っているので、自分にとっても直ぐ先にある感覚になっている。とはいえ葬儀より前に、長期の寝たきり介護や認知症と向き合う可能性は大きい。
二十歳の頃に綜合病院内の掃除のバイトを1年間したこともあり、投薬の種類の多さと比例するように日々患者の弱っていく様子、大掛かりな機械を病室に入れ人工的に呼吸と栄養分を送る延命治療の現場には疑問を感じた。会話が出来る時に患者の意志を聴くべきだと思い、尊厳死協会の一口会員になったり、各地で始まった自然葬の会にも関心を持った。その後四半世紀のあいだ幸い両親とも自活出来る位は健在なので今に至っている。
父方の祖父が死んだのは中学生の頃で、通夜から葬儀まで隣近所の奥さん方が手伝ってくれたのを覚えている。母方の祖母が死んだのは高校生の時で、ニュータウンに越してから亡くなったせいか、あるいは坊さんの技量のせいか、葬儀の流れがギクシャクしてた記憶がある。父方の祖母が亡くなったのは大人になってから、プライド高い倹約家で葬儀の費用を故人が用意していた。式は葬儀社のプランに任せていた様に思う。この時にはもう駅近くのセレモニーホールに会食コースと、遺族が弔問客に礼するのも流れ作業になっていた。自分は葬儀の定番になっている黒い背広を着用する事に抵抗し、黒系の服で妥協してもらった。戦後作られた浅いしきたりへの嫌悪感には自分でも驚く。そして何処の田舎にも同じ風景としてあるセレモニーホール。最後の見送りまで狭い世間様の顔色を伺うのは自分には分からない。でも多くの人はそこに決められていることへの安心感を持ってる事も理解できる。
昔は散骨の方法に興味があったけど、今は火葬場の性能が上がっているので高温で焼いてしまえば、灰しか残らない。骨を拾い集める儀式にも正直なところ意味を感じなくなっている。骨片に執着する理由がない。故人の思い出は形見のモノや写真で良いだろう。子どもの頃から墓参りには気持ちが入らなかった、なのに先祖や故人を思う信仰心はある。禅宗だもの。