前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

済州島 四・三事件〜「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語

今月都内の楽しい集まりで、偶然というか必然というか初対面で在日一世の元教師の方に、韓国語の文章を校正してもらう機会があった、出身を伺うと済州島とのこと。数年前にETV特集で視た「悲劇の島チェジュ(済州)〜“4・3事件”在日コリアンの記憶〜」番組タイトルすら忘れていたけど、やはり当時島で起きた殺戮から逃れて日本へ渡ったのかなと想像して、
「当時、沢山の方が亡くなられたようですね」主語が曖昧な頭の悪い質問をしてみたけど、質問しておきながら事件の大枠すらサッパリ覚えていなかった。悔しかった。


済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語

済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語

島の民族と神話〜 日本の植民地時代と島の歴史の紹介、済州島は大阪と貨客船「新君が代丸」の航路でつながって、ひとの往来が盛んだった事。多くは労働者、日本で学んだ学生で共産主義に傾倒した活動家グループが居た。日本の敗戦直後から「人民委員会」後の南労党として表へ活動を移すも、南北に米ソの暫定統治と緊張状態が続くなかで、半島の左派組織と済州島の組織は別行動を取って結果勢力を温存していた。1947年3月に偶発的に起きた三・一節事件でデモ隊へ軍政警察が発砲、民衆に十数人の死傷者を出し大量検挙から、危機感を感じた南労党が翌48年4月に四・三の武装蜂起、直ぐ山へ逃れてゲリラ戦を展開する、対する軍政側は村ごと焼き払ったり容疑者を並べて銃殺、家族を「代殺」したり、途中朝鮮戦争をはさんで最後のひとりが逮捕されたのが57年。島民の犠牲者は2万五千〜3万人。この間に日本へ逃れた済州島出身の在日は多いという。韓国国内でこの四・一事件を語る、問うことは長年許されなかった。


島民を凄惨な暴力で追い詰めたのは北朝鮮領から南へ逃れて来た「西北」と呼ばれる反共右翼青年団。米軍側も当時の済州島を「アカの島」とレッテル貼りをしていた。80年の光州事件で民衆へ発砲した武装警察側の証言と共通するものがある。地域全体が赤化した奴らと決めつける事は、為政者にとって殺戮の免罪符になるのか。


2000年の金大中政権でようやく事件の真相を究明する特別法が公布。2003年調査報告書。犠牲者の遺骨を発掘する作業が続く。
1948年済州島四・一事件と1980年光州事件の真相究明は多くの被害者や遺族にとって特別な意味を持つ。盧泰愚政権の時には日本の植民地時代の協力者を掘り起こす作業をしていたけど、戦後生まれの日本人としてはヤリ過ぎとしか思えなかった、未来から裁けばかなりの冤罪を生む。でも韓国の歴史を問う姿勢は自国民にも容赦無い。過去の過ちを責任の所在を曖昧にして流すわが国とは両極端でどちらも怖い。