前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

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小森陽一 /アーサー・ビナード「泥沼はどこだ ~言葉を疑い、言葉でたたかう」

泥沼はどこだ―言葉を疑い、言葉でたたかう

泥沼はどこだ―言葉を疑い、言葉でたたかう

4月1日にふさわしい「言葉を疑い」言葉のちからを問い直す対談本の感想をUP。
東京大学大学院教授、小森陽一は日本の近代文学が専門で「九条の会」事務局長。アーサー・ビナードは米国ミシガン州デトロイト生まれ、来日し池袋近辺で暮らして22年。詩人・ラジオパーソナリティ。普通の日本人よりも日本語と日本文化に造詣が深い。


日本国内で日々報道されるニュースのなかで、知られていない大切なことが数多く語られている、対談本なので読みやすい。粉飾決算が問題になったAIGの米軍御用達保険の役割や、前回の北朝鮮「ミサイル」発射騒動のことにも触れられている。故笹川良一の作った日本船舶振興会、現日本財団が英語名だと国際交流基金と同じ名前になってしまうとか、一番驚いたのはアフガンのカルザイ大統領が元米国石油エネルギー会社ユノカルの顧問だった経歴。9.11周辺の重要人物は油まみれのお友だちだった。(アフガンの汚職政権を資金援助する財務省はパシリかな)


3.11以降に語られた巻頭対談と、短いまえがき・巻末以外は過去に複数のメディアで行われたふたりの対談をまとめている。原発事故が起きた後の今から読むと確かに警句が繰り返しされている事がわかる、しかしこれらを「予言」だと簡単に言いたくはない。予言と言ってしまうと、彼ら日の目を見なかった「知識人」たちの警告を聴き入れなかった罰が下されたかのようで、どちらの立場でも心象が悪すぎる。
3・11以降に個人的に何度も考えていることは、真っ当な警告をしてきた彼らのメッセージがなぜ社会に受け入れられなかったのか、彼ら側にも当然落ち度があったのではないかという疑念。


自分個人の持つ「知識人」への偏見は否定しない。それでもふたりの対談では大多数の政治に興味のない(普通の)日本人への、情報弱者としての難民への哀れみが読みとれてしまう。マスコミ情報操作=陰謀論への反論を踏まえつつも、やはりワイドショーで有名芸能人のスキャンダルを大事な政治イベントにぶつけてくる時に「騙されている」一般庶民の反応を単細胞化し過ぎていると思う。
国際政治情勢に明るくない、というか知りたいと思う気すらない普通の人々が、国民のごく一部で知られたタレントのスキャンダルに飛びつく??そんなイメージ自体が不自然だろう。


原子力廃棄物の欺瞞を例える時に、人間の「おなら」に置き換えて話してしまっている箇所にも、子供だましのレトリックどころか、影響を軽く受け止められてしまう恐れを感じないのか?と思う。
これは何度も強く反省して欲しいところだけど、原発稼働で生じる放射性廃棄物の技術的な処理は未完成で最終処分場すら決まっていない、という根本的な欠陥を分りやすく伝えるために「原発はトイレのないマンション」という反原発側のフレーズが未だに使われ続けているけど、こんな逆効果な比喩はない!トイレなんて後で作れるじゃん!と軽く思われるのがオチだろう。
脳天気な原発推進側と同様に、反原発側一筋の人達も自分たちが有効だと思っているフレーズを問い直すべきだろう。単純に社会で空気の読めない変わり者、として存在を無視されていただけではないと思う。


3.11以前の原発反対運動が一般に広まらなかった一因に、世界平和へのアバウトな市民運動とのリンクが胡散臭がられたのも大きいと思う。それは憲法9条を賛美する人達への敬遠でもある。小森氏の発言には9条への過剰な美化が読み取れる。アーサーの場合は方向性は同じでも方法論が違う。9条を守るよう漠然と期待する・・・ではなく、政治家に期待したことは一度もない、希求するのだと言う。ここに仲間だけで平和を祈ったり歌ったりする平和運動との違いがハッキリしている。