脱原発パレードを歩いて思うこと
脱原発のアピールに明るい鳴り物や同じスローガンが必要だとしても、個人的には葬列のような静かな行進がしたかった。そんなんで何の抗議になるのかという自分への反論を置いといて。
日本でデモという行動が一般に浸透していない理由に、何かのイデオロギーに偏った団体への拒否反応があると思う。主張には共感したとしても、その組織の運動を丸ごと信用できるわけでもない、単純にその場限りで参加解散すればいいだけの話だが。
耳障りな騒音の元には関わりたくないとか、主催者側が盛り上げ役として配置した拡声器を持った人と一緒にスローガンを叫びたくない気持ちも分かる。
行進の中には話し相手をみつけて関係の無い話で楽しんでる人もいるし、前に行ったり後ろに行ったり動き回って楽しんでる人も居る。
繁華街の道路をふさいで歩く列の沿道には多くの歩行者、買い物客が感情の読めない顔でこちらを見ている。
終末論を唱える宣教師気取りと思われてるのか、あるいは逆なのか。
交通誘導に付いている数多くの警察官の中に居る幼い顔。
自分がテーマパークのアトラクションに乗って流れている錯覚。
色々と後ろ向きな事を書いたけど、まぁ、やってみないとワカラナイ。