前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

W.リップマン『世論』上下巻

どうも日々のニュース報道だけでは不満が溜まるので、W.リップマン『世論』上・下巻を読む。
著者は今も使われるステレオタイプという概念を作った。1922年に書かれた米国発メディア論の古典。
 世論〈上〉 (岩波文庫) 世論 (下) (岩波文庫)

われわれの公共の事柄に対する意見はあらゆる種類のコンプレックス、つまり野心、経済的利害、個人的憎悪、人種的偏見、階級的感情などと断続的に接触をもっていることは明らかである。そうしたコンプレックスがわれられの読書、思考、会話、行動を多種多様に歪めるのである。(P102)

ニュースの読み手は事実そのものよりも自分と繋ぐような暗示を求めているのか。


文章に例え話が多いのは話術というより、博覧強記な著者の思い描く大衆のイメージがひどく知性に欠けているからか?否定はしないけど。
貧しい労働者も上流階級の連中も、閉じたコミュニティで暮していることに変わりがない事も言及している。
【彼らは型にはまった生活をし、自分たちだけの問題に閉じこもり、より大きな問題はしめ出し、自分たちと同類の人でなければほとんど会わず、読書量も少ない。】
民主主義に必要な選挙の弱点、あらゆる組織の集票マシーンが起す弊害にまで早くも言及している。


その一方で人間個々を単純には考えない。【人間性を一般論として語ることがきわめて危険をはらんでいる理由の一つがここにある。子どもに甘い父親も上司としては気難しく、市民としては熱心な改革論者であり、外国の問題では強欲な愛国主義者かもしれない。】言われてみればあたりまえで現実的な姿でも、それを遮断する『ステレオタイプ』には魅力もある。最適化された予測可能な脳の情報処理が楽にできる。


欧米からは遥か遠い日本軍の占領地での朝鮮人虐殺が現地から詳細に伝えられても、正確かどうか調べるすべもなく最終的に新聞紙面3.5インチ程度(約9?)の短文で載る。
当時の米国社会で広まっていた民族への偏見のなかに、ずるい日本人観が紹介されているのが気になる。それくらいステレオタイプな日本人の出演回数は多い。とはいえ未だに日本が世界地図の何処にあるのか判らない人も多いだろうけど。


【ニュースと事実は同一物ではなく、はっきりと区別されなければならない。これが私にとってもっとも実り多いと思われる仮説である。】
そう思っても腹が立つのはどうすればいいのか。



帯カバーの紹介文のとおり今読んでも通用する内容。米国連邦政府の中で第一次世界大戦戦後処理のベルサイユ条約など重要な交渉も担当していた。後年は長く人気のコラムを書いていたジャーナリストとして活躍。そのせいもあって行政側での体験からは苦しく虚しい外交交渉・中央政府と地方行政のあらゆる歪み、報道する側では全国紙・大衆紙・地方紙まで新聞経営側の内情にも広くそれぞれの事情が書かれている。現時点での民主主義・世論の危うさ・問題点を解りやすく説き、悲観しながらも最後に理想を説く。


ラジオはまだ黎明期なので新聞ジャーナリズムが大衆メディアの中心となっている。