前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

カタルシスと呼ばずに

前日分の『従軍のポリティクス』より感想の続き。
以前から気に掛かっていた、悲惨な戦地・紛争地・恐怖政治下などのルポやドキュメンタリを視たり読んだり続けてると、感覚がだんだん麻痺してくる症状。直接的な体験ではないから『慣れる』『飽きる』とも違うし、残虐嗜好でもない。


第四章 戦争報道を見るテレビ視聴者の「責任」について 和田伸一郎
すでにそのような考察が様々にされていた事を知る。似た認識を持つ人には一読をお薦めする。こちとら誤読が多いと思うし。


写真や映画の『すでに起きてしまった過去の記録』と違い、テレビのライブ感は今の紛争地と視聴者のプライベートな部屋をリアルタイムでつないでしまう、という錯覚。
テレビ(製作者)からのメッセージを略すと『おまえはこれを見て、なにもしないのか?』
なるほど、見る側の後ろめたさと無力感と感覚の遮断には説得力がある。
自分は日常の暮らしでテレビを観ないので、この敷居の低さの違いは分からないけど。


一方で第二章 従軍のパラドクスには、2002年英米軍のアフガン攻撃での徹底した軍報道管理下での従軍記者の報道を『戦争のツアーガイドのように』機能したという表現もある。テレビゲームのようにという表現よりも合う。新たな従軍記者システムは広告代理店出身の報道官の発案だったというのも納得。でもテレビニュースをほとんど観なかったので当時のライブ感は知らない。


今は技術の進歩や世論操作の向上?で、敵側の残虐行為を捏造または犠牲者数を水増ししてプロパガンダに利用するのも常套手段になっている。19世紀の余所行きな写真撮影が事実そのものと直結していた頃とは違って、大量に浴びる映像や証言の真偽は素人には難しい。
メディアリテラシー以前に、日常の個々人は自分の世界観を弁護・強調するような都合の好いメディアからの情報しか拾わない。日本に居ると対話できる『世間』が狭い事も感じる。


同じ国の人間の死体は格段に見たくないし厭戦気分の広がりに繋がる、という論法は説得力がありながら逆の効果も発生する。『第五章 戦争報道写真』(p110)アメリカ軍の検閲でライフ誌掲載を却下されたニューギニア戦線での3人のアメリカ兵の死体写真は、なぜかニューヨークタイムスの広告に使われて戦時国債の販売促進に効果があったという。


平和の祈りにも復讐の連鎖にも【死体】がこき使われる現世の妙。