前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

「遺言」原発さえなければ

3月にポレポレ東中野で視た。「東電テレビ会議」以来の超満員のなかで休憩をはさんだ4時間弱。親戚の様に共有した時間の分だけカメラと共犯して視た感じ、今も感想がまとまらない。
http://yuigon-fukushima.com/introduction/



原発立地のところで上映されるのは望むところだけど、正直言えば同じ被害を受ける当事者として受け止めて視てもらえるか・・・というと自信がない。この国で東電福島第一原発事故はたまたま起きた不運なケースだと思い込んでいる人々は想像よりも多いだろう。


チェルノブイリ事故当時を思い出しても、「あれはソ連原発だったから、日本は違う」という半分バカにした脳天気な空気が漂っていた。最近見たドキュメンタリーの上映後に六ケ所村出身の方が、原発関連の巨大事業が滞っている地元の反応を「福一のせいで迷惑してる」ように受け止めてると語ったのは重かった。いったん地道な地場産業と人の流れを大金と巨大施設で変えてしまうと、原発に依存しないと生活できないという強迫観念に陥る。これは壊されてしまった現状を認めてから変えていかないと。都会から見た産業がないから原発施設を受け入れたイメージは、無自覚すぎる田舎蔑視。同じ人間が沖縄米軍基地問題へも同じセリフを吐く。


ドキュメンタリーのタイトルになっている酪農家の自殺、311以降は多くのひとの情緒が危うくなっているとは思う。


自分は自殺よりも内側から沸き上がる衝動的な殺意を自覚する。原発被害をあざ笑う人々の言動にはもう、誤解を解くための対話をする心の余裕が無い。突発的な殺意しか沸かない。自分よりも遥かに苦しんでいる被災者の怒りは想像を絶する。でも保身だけが第一の組織人間は愚鈍すぎて言葉どころか憎悪など届かない。責任の所在が分かってしまう書類は意図的に処分して、その場限りの意味不明のマジナイを唱え、恨みのマグマをなだめて流すのがこの国の流儀だった。


そんな伝統こそ棄ててしまえ。