前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

対話のルールを考えてもひとり

原発事故から今まで呆れた事のひとつ、ネットやリアルを問わず大人がする対話の救いのない低能さ。もちろん自分を含めて。


原発安全神話が崩れても、メディアに登場する専門家や論客たちの口から、自信たっぷりの詭弁は消えない。放射能汚染を喫煙のリスクに置き換えたり、原発事故を自動車事故と比較して一体誰を説得できると思ってるのか?こんな言葉しか語れない人間と同じ日本語使いであることを恥じる毎日。これ以上官僚に作文をさせ続けると国の信用が地に落ちて二度と拾えなくなる。文筆業のプロにこんな時こそ書いてもらいたい、国民を良い意味でダマして欲しい。ACの日本のチカラを信じてるとか子供向けマナー広告など要らない。国益OR平和への祈り〜とかの抽象表現は、今までどれだけ対話を阻んでいる事か。


原発容認派は脱原発派をおとぎの国の住人か妙な宗教団体に置き換える、段階的廃止を言っても聞く耳を持たない。それをブレない信念と呼ぶ。確かに正気とは思えない変な人はいるだろう、どっちの側にだって。
原発利権を知ったところで「マスコミはじめ推進派は金を貰ってるから」で納得する人の心理もワカラナイ。短期間だけ儲かったところで、10万年単位で放射性物質を管理する責任とコストを子孫に負わせる神経をなぜ疑わないのか。


今も日本人の多くが政治、宗教団体への嫌悪感を持っている。それゆえに、人はたやすく気に入らない意見を言う他人を「信者」とか「右」「左」とかで片付ける。米軍基地や原発を容認するときは、国からの交付金をもらってる地域を勝手に広げて「あいつら」呼ばわり。


最近は悪意ある発言の中に人の弱さを見つける事が増えた。
こういう小さな悟りも傲慢の範疇に入る。