雨の中の59年目
爺さんは旧日本軍の軍人だった。母親が1才になる前に船で上海へ赴いた。戦死するまでの6年間も中国国内で通信兵として転戦していた。婆さんの家の仏壇の爺さんの写真を今思い出すと、何かの建物を背に立ち、とても童顔で眼差しは老人のようだった。
キャパの戦争写真の中にある疲れきった少女の眼差しにも似て。
最後の手紙の中まで、子供たちの事を心配していた。昭和18年に毛沢東の生れ故郷の近くの村で、偵察か現地調達に出て、結果、軍用犬だけが帰って来たという。
長男が遺骨を取りに東京へ行ったが、骨壷の中は当然空だった。母の兄弟だけでも心情はさまざまにある。長女は戦後苦労したせいもあり、戦死した父と同い年の昭和天皇が、どうにも許せなかったという。末っ子の母親は東京に出てきてから、時々靖国神社に御参りに行っている。
祭られていると信じているから。
戦争の捨て駒として殺された挙句に、「名誉の戦死おめでとうございます」と常套句を隣近所から浴びせられ、戦後も英霊と祭り上げられ続ける屈辱感も解る。
物心つかぬうち、戦地へ赴き国のために苦闘の末戦死した父親の「御霊」が大切に祭られていると信じる心情も解る。
「国に殺された」も「自虐史観」も何の感情も伝わってこない。文革時代の「精神汚染」のように虚しく汚く滑稽に響く。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜