前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

旧満州 弥栄村史

これから中国東北部へ旅するまで調べ物を色々。数日前に巨大図書館で書庫入り蔵書から閲覧。う〜気がつくと5時間過ぎてる。


『弥栄村史』 弥栄村史刊行委員会 1986年刊行


分厚くて立派な弥栄(いやさか)村史は、文献資料と写真、元開拓民による手記を集めて編纂している。第一回目の武装開拓民までの経緯から、移民計画の誤算、厳しい自然環境と犠牲者、荒れた集団の気風を変えたという大陸の花嫁募集の始り、安定期、ソ連軍侵攻による長い難民の道のりまで、詳細な資料と手記が複合的に補間し合っている。
当事者の声を文集のように集めると、ここまで当時の村の暮らしを再現できるのかと思う程に出来が好い、と未来から思う。刊行された時期も関係者が記憶を残せる最後の機会だったのかも。


【 現・黒龍江省樺南県孟家崗にあたる 旧満州の開拓第一号の弥栄村をとりあげたテレビドキュメンタリーとして去年NHKスペシャルで放送の「満蒙開拓団はこうして送られた」がある。
有名な張作霖爆殺の首謀者のひとり関東軍将校・東宮鉄男が、実家に遺した手記から自身の満蒙開拓団計画の実行までを紹介していた。 】


昭和7年秋からの第一回移民での厳しい自然環境との戦いと内紛、土地を奪われた現地民(〜賊と記している)との銃撃戦での犠牲は弥栄村史で各人の手記からも多く読み取れる。初年度は毎月のように戦闘が起き、やがて犠牲者は減っていくが昭和13年まで続いている。開拓民から見た東宮への印象は、世話になったとか好い記述が多い。別の戦地で亡くなると開拓の父として村には記念館が出来ている。今でこそ情報は豊富だけど、ひとりの方の手記に『東宮は特務らしく私服の警護が常時3人付いていた』という鋭い見方もあり。


弥栄村神社は昭和8年(1933)10月に建立。弥栄東本願寺の関係者の写真と手記もあり。昭和10年に正式に弥栄村となる。大陸の花嫁募集などで既婚者が増え収穫や畜産も安定する。各開拓民が内地での出身県の単位で住んでいたので、特に成功例として知られた長野屯には昭和14〜15年の視察者約1万人のうち8割が訪れていた。教育にもチカラを入れていたそうで、戦後一貫してるのかと。


千振郷・西弥栄村と広く分村も出来る。西弥栄村 昭和18年7月に起きた奇病と犠牲者に関しては、後に731部隊と同じように家畜を使った細菌戦研究をしていた軍馬防疫廠(満洲第100部隊)の撒いた炭疽菌ではないかとも記されている。


昭和20年8月のソ連軍侵攻で村は集団避難を余儀なくされる。分村では一部で集団自決もあったが、弥栄村は雨の中でも伝令が行き届き、残留孤児の悲惨は無かったという。無論、昭和21年の年末に帰国するまでは苦難が続き、栄養失調や病気で老人や子を中心に肉親が沢山死んでいる。もう駄目かと思われた時に、誰かが全員に振舞ったというお猪口一杯の葡萄酒と蜂蜜に生き返った、体験などもあり。
村の名産に養蜂で採れる蜂蜜や、お酒の製造がされていた。
ラベル紹介で『弥栄葡萄酒』日本酒では『弥栄正宗』『醍醐』



巻頭にあるトラクターを運転する男性の写真は、てっきり開拓モデル村のディスプレイ用かと勘繰るも、手記から哈爾濱(ハルビン)鉄路局から借りて台数を増やしていった事を知る。もちろん当時のモデル村なので、他の開拓村とは違った国の支援や優遇措置は考えられる。


戦後の引揚から北海道の開拓へ向かった人々や、中には青森のむつ市六ヶ所村へ開墾して・・・という方まで居る。
もう感想が散文になるくらい、興味深い手記が多い。