前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

楽屋の心霊写真

志ん生を撮った!―元祖寄席カメラマン秘話

志ん生を撮った!―元祖寄席カメラマン秘話

戦後、都内で唯一戦災を逃れて残った人形町末広寄席へ、アマチュアカメラマン時代の著者が足しげく通って、掟の厳しい楽屋の中から高座での演技まで撮影をさせてもらった「作品」群と思い出話。写真学校では篠山紀信と同期で、後年に三遊亭圓生と古くからの交遊があった話も出る。ベテラン芸人はなかなかカメラに写ってくれなかったが、古今亭志ん生の場合は倒れた後の復帰から、人が変わった様に笑顔で応対するようになったとか。寝床のマクラでよく語られる「娘義太夫」の関連本を集めていたそうで、それを読んでいるポーズで写真に納まっても居る。短期間でも志ん生に女性の弟子が居た事も初耳。圓生は気の利く人でカメラマンの意図を先読みして自ら動いてくれたりもしたらしい。昭和36年3月東宝現代劇に出演している圓生の写真もあり。
個人的にはP184の人形町末広の客席でひとり安藤鶴夫が後ろを振りかえる写真が好いと思う。高座のメクリには先代の桂文楽の文字。


「わが青春と満映 昭和語り草双書」小泉吾郎(著) 舷燈社 82年刊


広島生まれの映画マニアだった少年が、新聞記者や京都の東亜キネマの営業を経て、満州で映画館の経営を手伝う。当時日本初公開のチャップリン「街の灯」では、昵懇にしている学校の英語教師に頼んで、英語字幕を訳して即活弁したという。後に満映に入社、新人俳優スカウト活動としてニューフェイス・オーディションなどに係わる。日本国内の芸人を満州で公演させるプロモーターのような仕事もこなしている。


落語本を読んでると出てくる、終戦直後の圓生志ん生の行方不明の話。5月に芸人慰問団で渡満して8月の終戦から大連で他の日本人同様、暫く帰国できなくなっていた。圓生は著者が旗揚げした「羽衣座」を訪れ、座った演技ならできると言って、大岡裁きの越前の守役を演じている。志ん生は酒を飲んでいただけで参加してこなかったそうな。