前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

安岡正篤

「昭和の教祖」安岡正篤の真実 (WAC BUNKO) 塩田潮(著)
94年文春文庫刊「安岡正篤 昭和の教祖」の改訂版


やすおかさねあつ・東洋思想の研究者で戦中戦後を通した右翼思想の重鎮・歴代総理の指南番・といった人物紹介よりも、「平成」の年号の発案者として、83年に86歳で亡くなる直前の細木数子(当時40代)との結婚は何事?という低レベルな興味から読んだ。


華麗なる人脈の構築を綴ってはいるけど、「右翼思想の重鎮」「総理の指南番」も過大評価という視点で書いている。取材と証言元の明記が少ないので、その分「再現ドラマ」風にも読む。
田舎の子供時代に母親から「四書五経」の素読をさせられ漢文の素養をつける。「王陽明研究」を書いた20代の大学生から既に、東洋思想の新進気鋭の「学者」として大川周明北一輝と親交も熱く、思想家・軍人・官僚・政治家と人脈を築く。結果クーデター側には就かなかったが、「血盟団」を体制側へ密告した疑惑もあり。言う事は立派でも自ら行動しない姿勢を批判され「座布団右翼」とも呼ばれたという。戦後A級戦犯候補から外されたのは、中華民国で親交のあった蒋介石のおかげだったという。戦後は台湾政府に義理立てすることになる。


終戦の三日前から玉音放送発表原稿(詔書)を漢文の知識を買われ何度も手直し、文章を置き換えているのが興味深い。最終稿は複数の官僚にいじくられて本人には不快なものだったという。安岡が置き換えた中国の成句「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」は歴史ダイジェストには定番。平成の年号は確実に彼の発案とは断定できないが、歴史のゴーストライターとしては秀逸ではないかと。


歴代総理の重要な演説や書簡のやりとりでも、求めに応じて手を加えている。年長の吉田茂が安岡を「老師」と呼んでいるのを本人は「皮肉をふくめたウイット」と受け取っているが、吉田の側近達は尊敬の継承をしていく。総理になる前の大平正芳が安岡を頼っている記述が多いが、他の歴代首相は単に「便利な男」として視ていた模様。「保守の守り札」として会いたがった中曽根が総理になった時にはすでに「恍惚のひと」になっていたという。




安岡正篤最晩年の細木数子との結婚騒動はWikiの安岡年譜に詳しい。(こちらの改訂本には銀座のバーではなく「赤坂のフランス料理屋」になっている。複数オーナー??)


最近の読書は明治〜昭和までの本に偏っているので、狭い人脈で重複するキャスティングと何度も生き直すキャラが、自分の頭を占領して迷惑する。