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- 作者: 多仁安代
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2000/04
- メディア: ハードカバー
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華北・台湾・南洋諸島・マラヤ、シンガポール・インドネシア・フィリピン・ビルマ各国の占領下での日本語教育事情。
著者は日本語教師としての経験と、日本語教育の研究者として出版物に発表した論文ものをこの本に纏めた模様。参考文献のひとつ「海を渡った日本語」と同じく各国別事情の章に分かれているのでアウトラインは似ているが、川村湊著の「海を〜」は主に現地の日本語教師達の残した記録と学童の作文を掘り起こして繋げる作業、だとするとこちらの本では統制元の日本語教育の手法での論争(教授法と簡略化)と現地の対応の違い、現地の戦後史研究から多くの文献参照で日本人の「思い出」が簡潔に補正されている。
台湾の章では、日本語教育初期に起きた教師殺害事件「柴山巌」事件で、抗日武装集団蜂起を察知した勧告を受けていたのに避難が遅れて殺害された。とのこと。古い本などはこの事は書かれていない気が・・・。日本語教育強化の一環「青年劇」での台本と粗筋も、今の立ち位置で読むと問答無用の赤面もの。
「霧社事件」では「鎮圧」後に生き残ったタイヤル族の強制移住と猛烈な日本語教育の後日談もあり。
南洋諸島の章では、当時の日本語教師側の島民への愚民観が記録を通して読める。ポナペ島(サイパン・グアムより南東)で91年にインタビュー調査した8名の老人達を通して当時の日本語教育事情を知る。おひとりは1923年埼玉県蕨市の尋常小学校に内地留学していた。島での公学校卒業生達の会話では日本語の間違いが皆無という。
マレー・シンガポールの章では、多くの人口を占める華僑系への警戒と圧制が多い。地元マレー人との対立を助長したともある。41年秋からの文化人を陸軍徴用員として派遣する中に、作家の井伏鱒二の名前もある。シンガポールで日本語新聞を担当し、有名なドリトル先生の翻訳はこの徴用後に再開されている。第二五軍の宣伝班の42年標語「マナベ使へ日本語!」と昭南日語学園の設立と事情、後の建国のリーダー、リー・クアンユーの自伝から当時の現地民の冷めた受け入れ心情を読む。個人的にはマレー半島でのハリマオ神話の創られ方と重ねたりするけど、これへの言及は見られない。
インドネシアの章では、当時の日本語新聞「ジャワ新聞」「セレベス新聞」(現スラウェシ)を通して日本語教育の実情と影響を読んでいる。日本が旧支配者オランダと違うのはインドネシアの人々を国民として広く日本語で教育しようとした事で、美談とされた自爆攻撃も国語力が普及させたのかもしれない。
フィリピンの章では、日本軍占領の圧政下のなか日本語教室で「反日感情」を隠さない生徒にやり込められる教師も居る。元々スペイン・英語と外国語能力での優れた教授法が浸透しているところも指摘がある。北部はカトリックが根強いので日本から急遽シスター達が派遣されて日本語教師をさせられてもいる。
敗戦後には現地民に普及した日本語で「罵声」を浴びせられることになる。
ビルマの章では、軍史研究から当時の占領軍の日本語強要も、意外にも柔軟な対応を現地で行なっていた事を知る。日本軍に首相にされたバー・モウ氏の回想録からも民族解放を謳ったインドシナ前線で現地民に強硬になりきれない日本軍の実態がおぼろげながら伝わる。
全体を通して短い文章で詰めて書かれている。広く出版されている「大東亜」関連本での日本の占領下での功罪のどちらかにブレる書き方とか殆ど見られない研究本。世紀を跨いで冷静な好い本の出版が増えていると思うのだけど、書店の売り上げランキング上位本は煽り本だらけ。国策と売り上げは同意語か。