前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

妖怪「観光客」

仕事中に突然思い出す。アイヌの観光村に居て冷めた眼で立つ自分。なぜ今まで思い出さなかったのか不思議。これは昔、最初に就職した会社の社員旅行で行った北海道での一部記憶だった。嫌いな会社の記憶と共に封印してた?それって嘘くさい。
今なら親睦を目的とした団体旅行など断固拒否。当時は薄給から旅行積立金を引かれていた訳だし。これ自体はよくある話。ただ、あの時覚えた感情が今とても気になる。


北海道を足早に観て行くルートの観光客に見せる村だったはず、短い踊りも見た気がする。説明役のアイヌ文様の服を着た恰幅のいい男性が、TVCMのキャッチコピーを混ぜながら客から笑いを取っていた。そこで退く若造の自分。
アイヌに知識がない観光客にも親しみやすく解りやすく、という工夫がされていた。と今なら理解できる。当時は異文化への無知な憧れも手伝って「がっかり」した。してしまった。
この感情は広く観光客に一般的かもしれない。中には商魂ばかりで「うんざり」と受け取るのも、世界各地の民族村で視かける。


観光としての民族村も、紹介だけではなく伝統の復興・創り直し、という大切な場所でもある。今ならそれが解る。
それでも偏見や政治的な功罪からは逃れられない。偏見というのは少数民族の内側にも強くある。あまりに差別の体験が酷いと「観光」は仲間を馬鹿にした見世物にしか映らないとか、出身を消したい同胞には、そっとしておいてくれという立場もある。同化の苦しみは支配者側には伝わるわけもなく『いい事をしてやった』と騙る史実に使われる。
自分達の文化の復興に理解し協力してくれるのは、同胞よりも部外者の一部だ、という声も聞く一方で、博物館のコレクションに死保存されるのを嫌う者達からは学術研究者との確執も起きる。
その国々で少数民族を保護して内外に見せる態度は、明らかに国の多様性を示す広告に使われる。それに実態は伴わないケースが多く、一握りの代表者達のみに利権を与えたりもする。
異文化への憧れだけだと、インデアンの自伝とされた「リトル・トリー」の様に、KKKに騙されたりする。参照
斯様に「エキゾチック」は複雑な味がする。