前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

コンビニ棚の多文化主義

ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判

ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判


前の日記から気になっていた本。章の題名だけでも上手で面白い。
オーストラリアでの移民排斥と文化多元主義の論争を、ユーモアを含めた持論で表裏一体だとバッサリ切っている「問題作」。



公共の場で起きた「マケドニア人のためのマケドニア」という落書きから始まるカキコミ応酬のエピソードをマクラに第一章。
湾岸戦争中に、オーストラリア各地で(ヒジャブ)スカーフを被った女性が、通行人に剥ぎ取られたり罵声を浴びせられたりした、連続する報道に違和感を持った著者が、それに対する第三者へのインタビューのなかで、絵に描いたようなレイシストの素直な意見を披露する。同じ国の出身でもキリスト教イスラム教信者の深い不信感があぶりだされてもいる。


レイシストファシストなどの言葉は、巷であまりに乱用(概念のインフレーション)が過ぎて、脈絡なく相手を罵倒する時に、それらを吠えたり鳴いたりもしている。白人警官にボコボコにされた被害者の口からは、白人全体への罵詈雑言。元気いっぱいのレイシストなのでした。否これは復讐の連鎖か。双方の言い分は軽蔑語だらけ。言ってる内容は万国共通だと思う。


くさい。汚い。うるさい。だらしない。数が多すぎる。
個人的に嫌な体験をすると、その相手=民族全体へのステレオタイプな憎悪がたやすく進む。


様々な国系オーストラリア人の言い分を聞いて解ることは、誰もがレイシストである、という簡単そうで基礎になるもの。
国民は自国を、故郷=祖国のように感じることができる権利があると思いこむ・・・。よって異文化のエスニックを排斥〜調整・統治する権利を主張する。それは自分の「家」のイメージでもある。


第五章で著者は、ナショナルの「家」よりも、旅行者の空間としての「居間」というイメージを出している。(ちきゅうしみん・・・とかより好感が持てるけど)旅行者というのは一過性のものであるという表現なのは解る。未来永劫の「約束の地」は愛憎も産むので。




レイシズムとは、偏見ではなく権力である」も検証する。善良な寛容さを説く白人も、自らの管理下で保護する対象としてのエスニックを前提として語っていることから、ナショナリストの一種に過ぎないと判断されている。受動的な客体としてみなされたモノとしての異文化。
管理された『死せる』エスニック達に、埋め尽くされたナショナルな秩序幻想を、著者は皮肉を込めて『ホワイト・ファンタジー』と呼ぶ。
オリンピック、博物館や万博でも、国家の持つ多様性というコレクションの「誇示」という面は大きい。





著者は青年期にベイルートから豪に移民したキリスト教レバノン人の学者。「精神分析人類学」という肩書きには正直退く。自分には、常に学術的なものへの漠とした疑念と、心理学・人類学2つのジャンルに対する強い偏見を持っている。


この本に書かれている持論をまるごと理解した自信は無い。
ただ、これを踏み台にしないと次に進めない「感覚」がする。