前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

イラン映画をみに行こう

イラン映画をみに行こう

イラン映画をみに行こう」
2002年9月までの40作品を紹介、写真満載のおしゃれな本。

首都テヘランイスラム圏で文化の発信地の一つだと実感する。
イラン映画の中でマフマルバフ監督作は日本でよく公開されている。「サイレンス」(98年)はイラン、フランス、タジクの合作。主人公の盲目の男の子が、色彩豊かなタジキスタンの風景を町並みを歩くのが印象的だった。男の子の世話を焼く少女の1カットが、この本の表紙に使われている。立ち姿も民族衣装も綺麗。同じ中央アジアのパラジジャーノフ監督作品も新鮮な色彩だった。

印象深い「サイクリスト」(89年)もちゃんとDVD化されている。
前作の「ボイコット」(86年)は無理か?個人的には大傑作だと思うけど。上映会、少なくとも都市部のレンタル店にDVD化して置かないと、国内では認知されないだろう、残念。


アジア・映画の都―香港~インド・ムービーロード

アジア・映画の都―香港~インド・ムービーロード

アジア・映画の都 松岡環 著


香港〜インド・ムービーロードの副題の通り、多数のインド人監督や香港の映画産業人へインタビューで、映画発明以来のアジア各国の映画産業の勃興と交流、凋落や分業化の流れを書いている。それぞれの映画解説は感情移入ドップリで面白いけど、これは立派なアジアの映画産業研究本だ。
著者はアジア映画の伝道者。あとがきには、国内の国際映画祭でアジア映画は冷遇されていたことも書かれている。自らはフィルムセンターや国際交流基金主催の映画祭に関わっている。今まで知らずに観ていた。尊敬する。
各国を長年、縦横無尽に飛んで取材やら資料集めや留学やら、国内では映画紹介もしている。
日本人タレントの駄目エッセイまで、山積してある外国の資料室から宝を探し出し、映画は地元映画館で観まくっている。ありがたやありがたや。


面白エピソードが多すぎで書ききれないが、自分のやや苦手なタイ映画では、吹き替え声優が人気があって、国会議員に当選したケースもあるとか!幸福の黄色いハンカチもタイ映画でリメイクされている。日本でヒットした香港映画「恋する惑星」を著者は台湾の市場奥にある場末の小屋でたった一人の客として観たという。台湾は選球眼が好いです。狭いぞアジア!


戦争と映画―戦時中と占領下の日本映画史

戦争と映画―戦時中と占領下の日本映画史

「戦争と映画」清水晶 著
冒頭、満州事変〜太平洋戦争までを15年戦争として捕らえ、それ以前の大正九年アムール川での尼港事件を映画化した「尼港最後の日」から「戦争と映画」を語っている。
満州事変以降のブーム。「肉弾三勇士」各社6作、「空閑(くが)少佐」物語5作品。美談とされた少佐の「捕虜を恥じた自殺」は後に多くの死につながったと推測される。年々検閲が強化されるが、終戦を挟んでGHQ検閲へと絶えない流れ。


満州建国とともに満州映画が量産されスター李香蘭を生む。台湾を舞台にした当時の国策映画をビデオで観た。「日本に好感をもっている現地の美人女性」という役でも出演していた。この構図は普遍性がある・・・占領された人々には二重の逆効果だが。


昭和16年の建国祭(建国記念日)に日劇の「歌ふ李香蘭」ショーで観客が7周り半に並び、5千人殺到で中止になったそーな。当時の大陸熱とアイドルプロジェクトは伝説も多そうだ。
開拓団の暮らしを長期ロケで描いた「沃土万里」(昭和15年日活)はビデオで観た。元のフィルムが相当痛んでいたが。「大陸の花嫁」志望の女性3人組が日本からやってくるのは愛嬌で、泥臭く開拓の辛さや疲弊を忠実に描いていたと思う。


戦争で特撮とアニメが進歩したといわれる。その具体例も作品を挙げて紹介されている。
敗戦間近につくられた「乙女のゐる基地」はビデオ化されて観た。航空整備兵として女子挺身隊がテスト採用で働いている。しかし4月末封切では爆撃で街はそれどころではなかったはず。上官役で。笠智衆東野英治郎志村喬、TV版水戸黄門1号2号が出演していた。
本を読んでいて、自分の観た映画の記憶が雑念にもなる。
戦後、アメリカ映画解禁で著者が最初に観た映画が「キューリー夫人」というのも感慨深い。伝記の通り放射線被爆で死ぬのだろうか?米軍は未だに「被爆」は病気として認めていないはずだ。
日本が撮った「原爆記録映画」が没収され、本の終わりとなる昭和27年GHQの検閲が終わるまで、原爆の惨状は公開できなかったという。チャンバラ映画と共に。


「ロシア・ソビエト映画史」山田和夫 著

日記タイトルを「前略スターリン」としていると(信奉者でもないに)故人のやりたい放題に謝罪の気持ちで一杯にもなる。「戦艦ポチョムキン」で有名な古典映画の巨匠エイゼンシュテインは格段に酷い目に遭っている、粛清の中で生き残るという仕事はどんなに苦しい思いだろう。「アレクサンドル・ネフスキー」はラストをカットされてハッピーエンドで終わらされた(末来世紀ブラジルの話に似てる!)。
スターリンが「イワン雷帝」を英雄視していたために、映画製作への介入ははなはだしいものになった。ようやく完成した第二部へ、スターリンの勝手な酷評と公開中止には、処刑されたも同然の恐怖と怒りを憶えたのではないか?自分は第一部のみビデオで観た。重い空気が流れ、妙な緊張感が「作為的」とも受け取られた。第二部はスターリン死後公開されたが、第三部は完成すらされなかった。


映画をプロパガンダの道具として使う事を始めたのは、レーニンの頃から。映画列車というものまであったという。撮影隊+現像編集作業場+移動映写館。大陸間弾道列車より実用効果はあったと思う。レーニンは亡命中も映画館のニュース映像から詳細な各国の最新情報を取っていたという。スターリンはハリウッド映画好きで、「肉弾鬼中隊」(1934年LostPatro1)に似た映画をソ連で造らせたりしている。映画大学から優秀な人材が育つ一方で、時代の一貫性のない検閲が行政機関から妨害となる。


タルコフスキーパラジャーノフ。二人ともソ連崩壊前に亡くなっている。パラジャーノフは「ざくろの色」「アシク・ケリブ」など日本で瞬間風速的に紹介された。グルジアで遭った著者によると、明るくて挑発的な変人だったようだ。父が古美術商人というのも納得。映画のセットではない装飾は本物だったのだろう。


タルコフスキーは日本でも人気がある監督。「僕の村は戦場だった」のトーンの暗さが忘れられない。「惑星ソラリス」はSFフアンに評価が高い。原作の斬新で哲学的テーマとソ連映画の低予算特撮が結果的に良い映像化につながったのではないかと思う。
ペレストロイカからソ連崩壊へ西側映画の大量氾濫へと話は続く。


今につながる監督としてソクーロフが評価されている。亀井文夫の「戦ふ兵隊」(1938年)に触発されてアフガン国境で「精神(こころ)の声」(1995年)を撮ったという。「戦争と映画」を読むと昭和13年の日本軍漢口攻略作戦の記録映画としてつくられたが、勇戦奮闘どころか疲れ果てた兵隊をありのままに映し、家を焼かれた民や難民たちも映っていた内容だったため、敗戦までは公開禁止になった映画だとか。作品の影響力は甦生するものなのか。そしてソクーロフは今現在「昭和天皇」を主人公に映画製作準備中だ。