前略。スターリン(旧ソ猫を噛む)

好きなドキュメンタリーと音楽と旅を楽しむ前提で原発の今

クレムリンの子どもたち

クレムリンの子どもたち

クレムリンの子どもたち


定価5千円プラス税でブルジョア的な本ですが、内容が重厚です。
革命前からゴルバチョフまでの指導者達の側近の子どもたちの暮らしを中心に、回想や文献で重層的に複数のルポライターが書籍にした労作です。ちゃんとした解説は成文社HPにてどうぞ。





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★お気に入り箇所をこっそり抜き出します。


(P117)ババーエフ工場のチョコレート


  全体主義体制に少し甘味をつけることはできないか?「そりゃだめだ!」 ーきっとそういった答が返ってくるにちがいない。では、なぜ巡洋艦オーロラ号をチョコレート色に塗ったのか?パブロフの犬みたいに、託児所に預けられたころから条件反射を身につけてしまった人間なら、それは少しも不思議でない。キーワードと表現の反射なのである。
クレムリン」「党」「オーロラ」という言葉が発せられると、とたんに反射が起こって、その人の口いっぱいに、ピョートル・ババーエフの名を冠したモスクワ工場のチョコレートの味が広がるのだ。甘味料を添加されたトタリタリズムなる思想の裏付けは、作家のワレーリイ・アグラノーフスキイの短編「チョコレートのジョー小父さん」にみとめられる。アグラノーフスキイが物語るのは、両親が弾圧を受けたあとの自分の生活である。13歳の彼は兄と暮らしていた。兄は17歳だった。


「では、読者の皆さん、最後にわたしは、お約束の、ヨシフ・ヴィサリオーノヴィチの耳のお話をしましょう。


1939年春。わたしは、第315小学校の生徒でした。この学校は後援機関がババーエフ製菓工場だったために、別名「天国小学校」(ラーイスカヤ)とも呼ばれていました。いったんシェフと関係が生じれば、学校側もその天国のごとき援助に報いようと、できるかぎりの協力をすることになります。ちょうどそんな機会がやってきたのです。三年生2クラス ー 重要な行事の場合は一軍団として八十人。妙な伝統ですが、官僚や伝染病発生時のインフルエンザ罹患者、また大量の新生児の数を数えるさいの単位です ー の編成で、教師たちを先頭に、工場へ行くことになったのです。


(中略)そこの台座の上に「指導者」の強大な、チョコレートの半身像が立っていたのです。スターリン60歳の祝いに誰かが注文したものか、工場自らが製作したのか、わかりませんがー。もう完成していて搬出を待っているところだったのです。
台座にぶつかったのが誰なのか、それもわかりません。ただわかっているのは、スターリンが一瞬ぐらっときて、どたんと倒れ、大小さまざまなかけらがそこら一面に飛び散ったということだけです。
先生たちは呆然としていました。部屋から所長が飛び出してきました。純粋まじりっけなしのチョコレートでできた、進歩的全人類の天才的指導者の無残な姿を目にして、彼の顔面は蒼白でした。そして、濁ったような目でわたしたち全員を見、それからなぜかきょろきょろとあたりを見回してから、どこか口の右半分をぴくぴくさせながら、蚊の鳴くような声でー もちろん、生きた心地も無い教師たちにではなくもっとも過激な分子たるわたしたちに向かってー 「もういい、勝手に食いたまえ!」と言ったのでした。


  わたしたちはたんに命令を聞いただけでなく、正しくそれを理解し、もう何もむずかしいことは考えず、ソヴェートの子どもたちの「最良の友にして教師」であったチョコレートのかけらに突進したのでした。
ともあれ、わたしたちがいちばんびっくりしたのはー みんなそうだったでしょうが、意見を述べ合った事がないので、わかりません。それどころじゃなかったのです。ースターリンの中身は空っぽだった、という厳然たる事実なのでした。今ならちゃんとした考えも浮かぶのでしょうが、当時はただもう戸惑うばかりでした。なんせ、今でもはっきりと憶えていますがー ある日、クラスの誰かに「スターリンは僕らみたいにトイレに行くのだろうか?」と訊かれ、その国家反逆罪にも相当する質問に対して、わたしは、けっして疑問がないわけでもなかったのに「まさか、そんな!」などと即座に答えたくらいでしたからー。


次に驚いたのは、そんな騒ぎの中で、わたしが手にしたのが、足首二つ分もあるような、でっかいヨシフ・ヴィサリオーノヴィチの耳だったことでした。ほかのときならそんな大きな耳一つでまる一日楽しめて、しかも兄のトーリャにも、いや、聖書にでてくる七つのパンみたいに、世界中の人々に分けてやれて、それでも少しも惜しくはなかったでしょう。なんといっても指導者は、万人にとって唯一の、まさに神のごとき存在なわけですから。でも、今すぐそのスターリンを、われわれ生徒が手早く片付け(一掃また粛清の意味もあり)なくてはならないのです。


きれいに片付け終わるのに何分かかったか、少しも記憶にありません。もしわたしたち子どもが人肉嗜好について何か知っていたら、あるいはまた大人たちに、出来したことに対して政治的評価を与える勇気(と愚かしさ)があったなら、あれはどうも一種の政治的カニバリズムの一変種と位置づけるべき事件だったように思えるのです。ともあれ、わたしたちはチョコレート製の胸像の残骸を何キログラムも、水も飲まずにたいらげたのでした。子どもたちが、です!


スターリンは形跡もありません。それこそ、ひとっかけらも!これ以上聖物冒とくが行われてはたまらないと思ったのでしょうか、所長は箒を使わせませんでした。チョコレートとはいえ、やはりスターリンだったわけですから。もっとも、敢えて断言しますが、あんな不運な台座にのっかってたら(けっして政治的な意味合いではなく、あくまで食品ということで)、たとえマルクスだろうとプレハーノフだろうと、トロツキー、いやレーニンだって、同じ運命をたどることは避けられなかったろうと思うのです。読者の皆さん、現にこんな一見たわいないような文章だって十分すぎるほど冒とく的であるわけですからね。ともかく顔中チョコレートまみれにし、腹いっぱい食べて満足し切ったわたしたちは、ふたたび隊列を組むと、ドラムの音に合わせて、意気揚々と戦場をあとにしたのでした。


しかし、それで一件落着というわけにはいきませんでした。翌朝、二クラスとも全員欠席でしたー そろってお腹を下して動けなかったのです。口にするのも恐ろしいのですが、ヨシフ・ヴィサリーオヴィチは他のすべてに関しても、呪われた存在だったのです。